陶氏診療院

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人生の苦難と目標
WeChatグループから送られた「泣きながら生きて」(含涙活着)(フジテレビ2時間枠で放映されたドキュメンタリー)の動画とその後の主人公の現状の文章を読んで、涙と感動で、人々に転送しました。

当時、日本での放送も人気になり、チラシにも「それは、笑うための準備なんだ。国境を越えて、世代を超えて、時間を超えて、伝わるものがある。上海、東京、ニューヨーク、運命に翻弄されながらも、決して希望から手を離さなかった。ある家族の愛の記録。」

主人公は上海出身男性丁尚彪さん、50年代生まれた丁さんは、小学校卒業後、「文化大革命」に当たり、16歳で中国の当時知識人を農村に再教育「上山下郷」を国の政策で、安徽省貧し農村に行きました。一人生活を経験により、のち日本に来る時の苦難も乗り越える糧になりました。1981年上海に戻り、、農村で知り合い同じ上海からいた女性と結婚し、一人娘が生まれました。丁さんは中小企業に勤め、夜も夜間学校で勉強し、好青年の努力を怠っていないです。

当時、海外に留学、出稼ぎ出国などが流行っています。友人は日本に来て、「カラーテレビや冷蔵庫、電子レンジなど、路上で廃棄、拾っても使える」と聞いて、当時の上海は白黒テレビも配給制で、普通の家庭には買えない時期でした。丁さんは、自分の居場所から、出世はないから、35歳で、日本留学に決心しました。

丁さんは日本の北海道飛鳥学院阿寒校に入学して、42万円(当時15年分の年収)借金して、阿寒校は三ヶ月アルバイト禁止で、借金した生徒さんたちは、やむを得ないで、東京へ留学から出稼ぎに替わり、56名の留学生は、一年後7名しか残っていないです。

東京行った丁さんも何回学校へ挑戦しても、次のビザが下りないため、不法滞在になり、アルバイトしながら、納税して、中国の娘の進学を指導しました。のち、娘はアメリカに留学して、医者になり、丁さんの人生目標を達成しました。その後、結婚した娘の要請で、アメリカへ行き、アメリカでも立派な人生を歩んでいました。

15年間日本の出稼ぎの結果、家族の夢ができました。ドキュメントの最後まで、丁さんの話は明るくて、夢と希望で溢れるほど、感動します。娘のアメリカ留学時に、一夜東京滞在、奥さんは娘に会いに行くため、東京三日滞在、家族の愛を十分するほど、涙を誘います。

丁尚彪、上海人の代表で、私時代の背景と似たような経験で、特に感銘しました。
2021-02-27